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泉東分教会発行「躍動の泉」連載 村上道昭 むらかみ みちあき 「明治十三年九月二十二日(陰暦八月十八日)転輪王講社の開筵式の時、門前で大護摩を焚いていると、教祖は、北の上段の間の東の六畳の間へ、赤衣をお召しになったままお出ましなされ、お座りになって、一寸の間、ニコニコとごらん下されていたが、すぐお居間へお引き取りになった」(『逸話篇』七三)今回は五十年のひながたにおける応法の問題について考えてみましょう。 応法については秀司先生の場合と、明治十四年以降の教会公認運動に分けて考えられますが、ここでは秀司先生に関する応法だけを考えてみます。 秀司先生についてみますと、二つの一見すると両立しないような教祖に対する態度がみられます。どこまでも教祖の仰せに素直に従う面と、思召に背いてまでも貫徹しようとする姿勢であります。前者については『教祖伝』に散見され、問題はありませんので、後者について検討してみましょう。 慶応二年秋、小泉村(大和郡山市)の不動院の山伏達がお屋敷に乱入し、乱暴狼藉を働くという事件があります。同じ日に山中忠七宅へものりこんで、乱暴を加え、その足で古市代官所を訪ね、公許なしに信仰活動をしているとして、お屋敷を訴え出るに至ります。代官所での事情聴取では不都合な点はすこしもなく、公許を得ていない点だけが問題となったため、秀司先生は、当時神道界に絶大な権威を保っていた京都にある吉田神祇管領に願い出て、七日間かかって慶応三年七月二十三日付で許可を得ることができます。しかしこれは本教の公認というものではなく、単に神道の行事を百姓の身分のまま行うことのできる許可にすぎません。 教祖はこれに対して「吉田家も偉いようなれども、一の枝の如きものや。枯れる時もある」と仰せられ、反対されています。 三年後の明治三年、吉田神祇管領は廃止され、公認は無効になってしまいます。教祖はその公認の間に、慶応二年から明治三年の間に、かぐらづとめの第一節、一下り目から十二下り目のみかぐらうた、第二節、よろづよと順次教えられます。 明治八年民権運動の高まりの中、許可のない集会活動などに対する官憲の目が厳しくなりはじめ、九年には個人の邸宅内に神仏をまつり、他人を参拝させてはならないという法律がだされ、人々のお屋敷への参拝もままならないようになってきましたので、秀司先生は大勢の人が寄り集まる口実のために、表向き風呂屋と宿屋を営むこととし、堺県へその鑑札を受けにいき、明治九年春の初め頃許可を得ます。 これに対して教祖は「親神が途中で退く」と厳しくお止めになり、明治九年、蒸し風呂に薬種を用いたとの疑いで、秀司先生は三十日間の拘留に、翌年には村人の根拠のない密告によって四十日間の留置に処せられます。 風呂屋、宿屋は教祖が「親神が、むさくるしいて〜〜ならんから取り払わした」と仰せられ、秀司先生の出直し後、明治十五年十一月八日、十四日にそれぞれ廃業されることになります。 明治十三年になり、教祖はおつとめの完修を急き込まれるようになられますが、政府から集会条例が出され、官憲の監視が一段と厳しくなってきます。そこで秀司先生は元々修験道系で、明治になって真言宗に所属するようになった公認宗派の金剛山地福寺に願い出てその配下になる決意をし、九月二十二日転輪王講社の開筵式を行います。(地福寺とのつながりは、明治十五年十二月十四日付で切れてしまいます) これに関して八島英雄は「教祖亡き後、自分が頂点に立つ教会を組織し、人々をその傘下に結集させ、中山家の安泰を計るにはどうしても高弟達の協力が必要でした。そこで秀司は、教祖が最初から使っている仏教系の天輪王という神名を使おうと考えました」(『研究ノート』205頁)と述べていますが、このような見方は全くの見当はずれで、この応法はあくまでも政府の弾圧をのがれ、教祖を守ろうとする窮余の一策であると思われます。 この応法の行為に対して教祖から「そんな事すれば、親神は退く」と厳しく仰せられます。また教祖は開筵式の八日後の九月三十日、初めて三曲をも含む鳴物をそろえてのおつとめを応法を雲散霧消させるべく敢行されています。この教祖の反対の中、あえて応法にふみきったのも、神一条にそわない単なる人間思案のゆえではなく、中山家の戸主として誰よりも母親である教祖の御身の安全と人々の無事を願い、たとえ我が身はどうなってもとの命をかけての強い決意からであったと思われます。 このように考えますと、秀司先生の教祖に対する一見対立するような態度は、一つの親を思う心から発するものとして受け取れるのではないでしょうか。 ところで秀司先生は転輪王講社の開筵式を終えて間もなく、その年の暮れから身上がすぐれなくなり、翌十四年四月八日六十一才で出直されます。教祖は秀司先生の額をなでて、「可愛相に、早く帰っておいで」と長年の労苦をねぎらわれ、秀司先生に代わって、「私は、何処へも行きません。魂は親に抱かれて居るで。古着を脱ぎ捨てたまでやで」と仰せられます。この出直しはどのように受け取れるでしょうか。 秀司先生は教祖の言われる神一条のお言葉に何度も背いたゆえに出直されたと一見思われます。「親神は退く」を出直すことと受け取ると、そのように受け取れます。 みのうちにとこにふそくのないものに 月日いがめてくろふかけたで (十二、118) この意味は『おふでさき註釈』に「秀司先生は、もともと身体に何処も故障が無いのに、旬刻限が来て親神様がこの世に天降られる機縁の一つとして、わざわざ秀司先生の足に患いをつけられた。この身上がたすけ一条のための試しであり、親神様の御意図に基づくものである」と説明されています。 また秀司先生ついては「32、つきよみハしゃちほこなりこれなるハ にんげんほねのしゅごふのかみ 33、このかみハとふねん巳の六十と いゝ才にてぞあらハれござる」(『和歌体十四年本』山沢本)と教示されますように、元の理における月よみのみことの御魂のお方といわれています。 ということは秀司先生の出直しも、神の思いにそわない埃や因縁、「ふそく」によるものではなく、出直しに至るまでの応法の道を含む通り方も、親神、教祖が神一条やたすけ一条を私たちに教えるために、試されたお仕込みやたすけの台という意味をもつのではないでしょうか。教祖は神一条、つとめ一条をより際立たせられるために、応法の道を一時的に黙認され、親神の思いをそのあとすぐに実現していくようにされたと思います。 真柱様は次のように述べられています。 「いまの日本では、なんの懸念もなく、おつとめを勤めることができます。しかし神一条と人間思案の葛藤は、いろいろなところで現われてくると言えるでしょう。法的な制約はなくとも、あれがあるから難しい、これがあるから仕方がないと、目先の対応にばかり心を奪われていると、ついには根本を見失い、本来の姿から大きく逸脱してしまうことにもなりかねません。これはお互い心しなければならないことであります」(立教一七一年春季大祭神殿講話) 応法の問題は、教祖が御在世中の過去のことではなく、今の私たちにとってのものでもあり、存命の教祖から日々の生き方において、節に出会ったときに返答を求められている問題でもあると言えるのでないでしょうか。
「針ヶ別所、平等寺、三昧田へのお出かけは、元のぢばを正し、かぐらづとめをお教え下さるためと拝すれば、安堵村、大豆越村、若井村、教興寺へのお出かけは、親神様の思召をお広め下されるためのにをいがけ、おたすけと思案させてもらうことができると思うのと、円照寺、県庁、警察監獄へのお出かけは、言うまでもなく往還道をおつけ下されるためなのであります。いわばこの三つはいつでも合図立て合うて、密接なつながりをもちながら、道すがらに現れているのであります」(『みちのとも』昭和五十七年十二月号十五〜十六頁)
真柱様は教祖の五十年のひながたにおけるお出張り(お出かけ)を一、元のぢばを正し、かぐらづとめを整える、二、にをいがけ、おたすけ、三、往還道をつける、という三つの目的に分けられ、いずれもたすけ一条という観点から密接なつながりをもつことを指摘されています。 教祖が月日のやしろとなられた天保九年から文久年間までは確かなお出張りの史実は明らかではありませんが、嘉永七年にをびや許しを出されてから、「重病人があって頼みに来ると、教祖は、いつもいと快くいそ/\とお出掛けになった」(『教祖伝』四二頁〜四三頁)と記されていますので、お出張りが始められます。 『教祖伝』には教祖自らの具体的なお出張りが文久二年安堵村の産後の煩いのおたすけに始まり、明治十五年六月十八日〜二十日教興寺村松村栄治郎宅へ、まつえの姉さく身上のおたすけまで十一回記されています。 そして教祖の召喚、拘留については十三回あります。自らのお出張りと官憲による召喚、拘留とは意味は異なりますが、教祖が拘留されることも「神のをもハくあるからの事」(五号 59)で、強制されたものではなく、自発的、自主的なものと考えますと、お出張りの一種と考えることができます。 教祖は一体なぜ警察、監獄署にお出張りになられ、御苦労下されたのでしょうか。 十三回の召喚、拘留、留置を列挙してみましょう。 明治七年十二月二十三日奈良県庁の呼出しで山村御殿へ。 明治八年九月二十五日〜二十七日奈良県庁の呼出し、取調べ、三日間留置。二十五銭の科料。 明治十四年十月七日丹波市分署へ拘引。五十銭の科料。 明治十五年二月奈良警察署から呼出し。二円五十銭の科料。 明治十五年十月二十九日〜十一月九日奈良警察署へ呼出し、奈良監獄署へ十二日間拘留。 明治十六年八月十五日〜十六日雨乞づとめの後、丹波市分署へ連行、徹夜留置。 明治十六年十月十六日尋問の筋ありと引致。 明治十七年三月二十四日〜四月五日丹波市分署へ拘引し、奈良監獄署に十二日間拘留。 明治十七年陰暦四月二十五日〜二十七日警察署へ連行し、三日間留置。 明治十七年陰暦五月二十五日〜二十七日 陰暦六月二十五日〜二十七日いずれも警察署へ連行し、三日間留置。 明治十七年八月十八日〜三十日丹波市分署に拘引し、奈良監獄署に十二日間拘留。 明治十九年二月十八日〜三月一日櫟本分署に拘引し、十二日間拘留。 以上が『教祖伝』に記されている官憲による教祖の召喚、拘留、留置で、計十三回ですが、これが十七、八回といわれたりするのは、分署から監獄署へ移られるときに、二回として数えられるためかもしれません。 明治十九年の拘留はいわゆる「最後の御苦労」で、このシリーズのNo.22に私見を述べましたので、ここでは明治十五年十月の御苦労について考えてみたいと思います。『正文遺韻抄』に「九月十八日事件」(二〇四頁)と題された一節があります。 十月二十九日は陰暦の九月十八日で、九月九日夜に次のような神様のお話があります。「さあ/\、屋敷の中/\、むさくるしいてならん/\。すっきり神がとり払うで/\。さあ十分、六だい、何にも云う事ない、十分八方ひろがるほどに、さあ、このところ下へもおりぬもの、なんどき何処へ神がつれてでるやしれんで」 九月十七日夜「明日出頭せよ」、との召喚状が留きます。本席様に御伺いしますと神様からの次のようなお話が下ります。「さあ/\、何にもあんじる道やない。さあこれで、すっきりねをからしてしまふた。これでこそ、もう、ねが絶えたかと、かみにも思ふてゐる。思ふ心が違ふから、さあ根さきから芽がふく/\、西も東も北も南も、さあ、一枚板になってきたとの事や、さあ、しっかりきいておくがよい」 屋敷の中のむさくるしいものを神が取り払うとは、具体的には明治十五年十一月八日に蒸し風呂の廃止、十二月十四日地福寺引払いのことと思われます。この地福寺引払いとは、明治十三年九月二十二日に開筵式をした地福寺(真言宗)の配下にある天輪王講社を廃止することで、これは教祖が最初から「そんな事すれば、親神は退く」と言われ強く反対されていたものですから、当然のことといえるでしょう。 では「十分八方ひろがる」、「なんどき何処へ神がつれてでるやしれんで」とは何を意味するのでしょうか。「すっきりねをからしてしまふた」、「もう、ねが絶えた」とは官憲が八十五才の教祖を拘留することによって、本教の勢いが止まってしまう、と考えますと、そのようになっていくどころか反対に、「根さきから芽がふく」、「一枚板になってきた」、つまりたすけ一条の上に親神、教祖がより働かれ、教勢がのびていくことを意味しているように思われます。官憲は教祖をいくら拘束して、身動きできないようにしても、教祖は現身をもたれたままで、「存命の理」としてのお働きをされる、つまり教祖が留置されていても、御魂はたすけ一条の上に働かれ、さづけを通しての不思議だすけをみせて頂くことができる、ということを明治十五年十月の御苦労を通して私たちに仕込まれたのではないでしょうか。 明治七年十二月二十三日山村御殿への召喚に始まる教祖の御苦労は「高山から世界に往還の道をつけるにをいがけ」(『教祖伝』四二頁)、高山布教で、「此処、とめに来るのも出て来るも、皆、親神のする事や。」、「親神が連れて行くのや。」(同二九〇頁、『逸話篇』一五四)と教示されますように、官憲による受動的なものではなく、逆にたすけ一条の主体的な働きかけと教えられますが、これとともに「存命の理」を教えるためとも悟ることができます。「とめに来るのは、埋りた宝を掘りに来るのや。」(同二九〇頁)の「埋りた宝」を「存命の理」と考えますと、教祖を拘束することによって、たすけ一条の道が妨げられるどころか、逆に教祖は「存命の理」として御魂は身体的制約をはなれて、自由自在に世界だすけに飛翔されるということを「埋りた宝を掘りに来る」という言葉で私たちに教えられているのではないでしょうか。 教祖は御苦労が始まってから、より強くつとめを急き込まれるようになります。つとめとは「人間創造の真実の親たる親神・天理王命の理がこもる」(『教祖伝』二〇八頁)もので、つとめの勤修によって、親神が勇まれ不思議だすけを見せて頂くことができます。 教祖の御苦労は一見しますと、親神の教え、思召のわからない官憲によってもたらされた、たすけ一条を妨害するものと思えますが、「西も東も北も南も、さあ一枚板(岩?)になってきた」の「一枚板」を親神、教祖のつとめと「存命の理」を通しておお働きが一体となることで、それによって世界だすけが加速されると解しますと、私たちに改めて「存命の理」の意味や、つとめの大切さを教えるための御苦労でもあると悟らせていただけるのではないでしょうか。 教祖を身近に 連載 No.48 本当のたすかり 「あんたは、足を救けて頂いたのやから、手の少しふるえるぐらいは、何も差し支えはしない。すっきり救けてもらうよりは、少しぐらい残っている方が、前生のいんねんもよく悟れるし、いつまでも忘れなくて、それが本当のたすかりやで。人、皆、すっきり救かる事ばかり願うが、真実救かる理が大事やで。」(逸話篇 四七) このお言葉は、山本いさが年来の足の身上の御守護を頂いてから、手のふるえがでてきて、中々治らないので、教祖におたすけを願い出たときに、教祖が仰せられたお言葉です。「すっきり救かる」は身上が全快し、病んでいるところがないことを意味しますが、「真実救かる理が大事」、「本当のたすかり」とは何を意味するのでしょうか。 東本初代中川よしさんのおたすけをみてみましょう。 中川さんは明治二十五年から郷里の丹波での布教を開始されます。「一人を助けるのに百里を歩く」(丹波、ぢば間を二往復)決心をされ、時には九日間絶食、不眠不休、真冬、真夜中の水行、願いづとめという超人的なおたすけを続けられます。死者が蘇生する等の不思議だすけが続出しますが、東京布教にでて四年後に丹波に帰ったときに、助けられた人々が出直し、道からはなれている姿を見て、大変落胆し、次のような反省をされます。 「私の丹波におけるお助けは間違っていた。私は、助かって貰いさえすればよいという考えから、身上助けばかりしていて、精神を救うということに気がつかなかった。そのためにこんなことになった。可哀想なことをしてしまった。私が間違っていた」(『中川よし』三五〇頁)ここで述べられている「精神を救う」ことへの布教方針の転換は、身上だすけをしたことが間違いであったからではありません。 信仰とは心、魂の救済が本義で病だすけは大切ではない、病だすけを標榜する宗教は低級であるとう見方がこれまでも、否現在でも根強く残っています。従って「精神を救う」とは身上助けをやめて、心の救済のみを目指すように思われますが、決してそうではありません。 心身問題(心とは何か、心身はどのように結びついているのかという問題)は現在でも哲学上の難問の一つといわれています。心身は一如、一つのものとみなしますと、身体をはなれた心、精神だけの救いというのは意味がないと考えられます。教祖は「すっきり救かる」つまり病だすけに対して、心だすけ、「精神を救う」を対置されるのではなく、「真実救かる」つまり心身ともに救かることを教示されています。「真実救かる」、「精神を救う」とは具体的に何を意味するのでしょうか。 まず第一に、前生いんねんが悟れるようになることです。教祖は手のふるえ、生活に支障のない身上が残っていることによって、「前生のいんねんもよく悟れるし、いつまでも忘れなくて、それが本当のたすかりやで」と仰せられています。今生における通り方、心づかいの反省だけでは不十分で、前生(信じることは難しいのですが、出直しが本当に胸に治まるとき、出直してこの世に帰ってくる自分からみると、今の自分は前生の自分ということになります)を視野に入れた反省、さんげが不可欠となります。 第二に神恩がわかるようになり、恩報じができるようになることです。東本初代は次のように述べています。「世の中は、恩を受けることに我ままとなり、恩を果たすことに気ままになっている。これでは、日本の国どころか、自分の身が、精神が持たぬこと当然である。金儲けを教える学校はあっても、果たしを教える学校はない」(三五一頁) 問題となるのは、何に対する報恩かということです。「大恩忘れて小恩送るような事ではならんで。」(M34・2・4)と教示されています。これは人への小恩にとらわれて、神への大恩を忘れてはいけない、と解されますが、それだけではなく、神恩にも大恩、小恩があって、救けられるということは小恩で、生かされている、身体をお借りしているということが大恩であることを教えられているのではないでしょうか。 病気を助けて頂くということは御守護であることは言うまでもありませんが、救けて頂いて元の健康な身体に復すことよりも、生かされていてその健康な身体をこれまでずっと維持して頂いていることの方がはるかに大きな御守護と言えるのではないでしょうか。病気になってはじめてその大恩に気づき、それへの報恩のたすけ一条の心定めをすることによってつとめ、さづけによって救けて頂けるのではないでしょうか。すっきり救かっていなくても、真実助っていることが成立するのも、この大恩への生涯末代の報恩の念があるからと考えられます。 第三に病の見方がかわり、病を御守護の一つの姿とうけとれるようになることと思われます。 本教では病の元は悪霊、怨霊のような外来のものではなく、あくまでも各自の心であると教えられるとともに、病は神の残念立腹、急き込み、よふむき(用向き)、意見、みちをせ(道教え)、手引き等と教えられていますが、又「ていり」(手入れ)とも教えられています。残念立腹は一見キリスト教の神の怒りのようにうけとれますが、そのあとに「心しだいにみなたすける」、「ふんばりきりてはたらきをする」(十五、16、17)と示され、神の愛の発動であることが分かります。急き込み、用向き、意見、道教えは病は神からのメッセージであり、それが正しくよみとれることがたすかりであると悟れますが、では「ていり」とは何を意味するのでしょうか。 これをみよせかいもうちもへたてない むねのうちよりそふぢするぞや このそふぢむつかし事であるけれど やまいとゆうわないとゆてをく どのよふないたみなやみもでけものや ねつもくだりもみなほこりやで (四、108〜110) 三番目のおふでさきは、病の元が埃であることを単に示しているように思えますが、前の二首をよくみますと、病とは「そふぢ」(掃除)でもあること、つまり病によって神が埃を掃除して下さっていること、それが「ていり」であることを教えていると悟ることができます。「やまいとゆうわない」とは病そのものがないという意味ではなく、病は神による強制的な埃の掃除で、忌避されるものではなく、痛みの伴う御守護である、ということではないでしょうか。このことはガンを例にとりますと医学的には次のように説明されます。 石原結実氏は『病気にならない生活のすすめ』の中で「ガン性善説」を唱えています。「ガン細胞は血液の汚れを処理し、血液をきれいにしている。ガン細胞も白血球と同様に身体のなかにたまった老廃物を処理するために必要で、浄化装置が手術で取り払われたら、生きている限り、新しい浄化装置をつくる、それが転移と考えられる」(四八〜四九頁) 第四に、「めづらしたすけ」が究極のたすけであると悟れるようになることです。 たん/\と神の心とゆうものわ ふしぎあらハしたすけせきこむ 三、104 たすけでもあしきなをするまてやない めづらしたすけをもているから 十七、52 本教の救済において、不思議だすけと「めづらしたすけ」が明確に分けられています。前者はガンが救かる等のたすけで、後者は「病まず死なず弱らん」、「百十五才定命」のたすけで、このたすけの条件として、埃を完全に払うことが求められます。逆に考えますとこの「めづらしたすけ」が実現していない限り、埃は残っているということになります。生かされている大恩への報恩をたすけ一条の御用を通して生涯末代続けさせて頂くことによって、前生からの埃が少しづつ払われ、日々「陽気づくめの心」で通れるようになる、これが「真実救かる」、「本当のたすかり」であると悟らせて頂きます。 ことしから七十ねんハふう/\とも やまずよハらすくらす事なら それよりのたのしみなるハあるまいな これをまことにたのしゆんでいよ (十一、59、 60) 教祖を身近にトップへ ページトップ 教祖を身近に 連載 No.49 三つの宝 「教祖は、籾を三粒持って、 『これは朝起き、これは正直、これは働きやで。』と、仰せられて、一粒ずつ、伊蔵の掌の上にお載せ下されて、 『この三つを、しっかり握って、失わんようにせにゃいかんで。』と、仰せられた。」(『逸話篇』二九) 教祖は人間生活の指針、生活倫理として、「朝起き、正直、働き」を教示されています。「朝起き」と「働き」について考えてみましょう。 「朝起き千両」、「朝起きは七つの徳」という諺がありますが、教祖はこのような常識的功利的な意味だけではなく、心身にとってもっと大切なことを教えられていると思われます。 最近の脳科学による眠りや生体時計の研究をみてみましょう。 人間の体には自律神経、体温、睡眠、覚醒、各種のホルモンなど、およそ一日の周期で変化する様々な生理現象があって、そのリズムはすべて脳にある生体時計からの命令で刻まれています。 人間の生態時計は両目の奥にある視床下部の視交又上核と呼ばれる部分にあります。この生体時計の一日は二十四時間より約三十分長くなっています。従って睡眠覚醒のリズムは地球時間より毎日三十分づつ遅れていくので、二十四日目になると、体の一日のリズムが昼夜が逆転し、昼に体がいちばん不活発な状態になるということも起こります。しかしふだんこういうことがなく、地球時間と歩調をあわせて生活することができます。これは生体時計の周期を地球の周期にリセット(同調)させる因子があって、中でも朝の光による同調作用が効果的で、脳の視交又上核が毎朝光を認識することによって、生体のリズムを二十四時間になるようにリセットしています。夜ふかしの生活では朝より夜に自然光でない光を浴びることになり、生体時計の周期を長くし、二十五、六時間になり、このズレを夜ふかしをつづけると拡大していき、修正できないようになります。これが「内的脱同調」とよばれる慢性の時差ぼけ状態で自律神経失調症の一つである起立性調節生涯(起き上がると血圧が急に下る)、慢性疲労、抑うつ、活力消耗等の症状となっていきます。 又朝の光には心を穏やかにする神経伝達物質であるセロトニンの働きを高める作用もあります。この物質は脳内の神経活動の微妙なバランスを保ち、これが不足すると精神が不安定になり、人間関係がうまくいかなくなってくることがわかってきています。 人間は当り前のこと思われるかもしれませんが、朝日を浴び、昼夜は働いたり、活動したりして、夜はゆっくり休むときに持てる能力を最大限に発揮できるように守護されているわけです。 次に「働き」について考えてみましょう。このシリーズNo.44「働く手は」で働く意味について述べましたので、今回はそれを補足して別の観点から考えてみます。 これまでの労働観において働くことは生きるための単なる手段、生活の糧を手に入れるためにやむをえずしなければならないことや義務とみなされ、働かざる者にマイナスの評価が与えられてきました。これに対して教祖は「人間というものは働きにこの世に出てきたのや」と仰せられたと聞かして頂きますが、このお言葉は人間は働かずにおれない存在で、働くことは生きることと離れず結びついている人間の本性であることを教えられていると悟ることができます。 シリーズNo.44「働く手は」において「人間にとって他者から承認されることは、ほとんど本能的ともいえる根源的な欲求である」という仮説を紹介しましたが、その欲求とともに、人間には贈与に対してお返し、お礼をせずにおれないという本能的ともいえる欲求があるのではないでしょうか。 人のものかりたるならばりかいるで はやくへんさいれゑをゆうなり ( 三、28) このお歌は他人に物を借りたなら利子をつけて御礼を言い、早く返済するようにという常識的な意味の奥に、人の物でも借りたなら利がいる、まして神からの借り物となると、どれだけの利がいるか思案してみよ、という意味があると考えられます。 人間の身体は親神からの借り物で、それは親神の見返りを求めない絶対的な無限の価値をもつ贈与であると悟りますと、感謝の気持ちが生じ、恩義に感じてお返しせずにおれなくなる、このことが「働き」、働くことの根本にあるのではないでしょうか。 昨今、世界金融危機、世界同時不況によって、労働環境が悪化し、働くことについての、ひいては生きることそのものについてのシニシズム(物事を正面から立ち向かおうとするのを冷笑する考え方)が人々のあいだにしのび寄ってきているように感じられます。はたらくのは所詮金のためにすぎず、要領のいいやつが勝組となって得をする、正直者は馬鹿をみる社会になっている、つまり働くことが生きがいとならないと感じる若者が増加してきています。 この根本原因として、借り物を自分の意のままに処分できる自分の所有物であり、働くことは生きるための単なる手段にすぎないとの考え方や社会における生産至上主義、能力主義、成果主義が考えられます。 本教では「身の内神のかしもの・かりもの、心一つ我が理。」(M22・6・1)と教示されています。 これは身体は親神からの借り物で、人間に所有権はなく、使用権しかないことと「我が理」として許されています心(自我を含む一切の精神現象)は借り物である身体、いのちに支えられて成立することを意味していると悟ることができます。私のいのちは借り物の身体に宿りますが、それは又親のいのちによって授けられたものでもあります。又社会のいろいろな人のいのちや世界の国々の人々のいのちの営み・働きによっても支えられ、食物(動植物のいのち)をはじめとするいろいろなものによって維持されています。 それらのお金には換えることのできないいのちの営み・働きによって私が支えられている、また心を使うことができると悟りますと、心の使い方も自ずと制限され、それらのいのちの贈与に対するお礼の心づかい、働きとなってくるのではないでしょうか。 この報恩としての働きにおいては、職業に貴賎はなく、たとえ家事労働であっても、報恩の心でなされる限り、尊いということになります。 最後に働きに伴います与えについての神言を紹介しておきます。 「めん/\年々のあたゑ、薄きは天のあたゑなれど、いつまでも続くは天のあたゑという。」(M21・9・18)「あたゑというは、どうしてくれこうしてくれと言わいでも、皆出来て来る。天よりの理で出来て来る。」(M26・11・28)「欲しいと言うてあたゑはあろうまい。心にたんのう持たねばなろうまい。」(M24・5・20)「渡世商売という/\、一時には良いように思う。(中略)数々商法中にせいでもよいものもある。よう聞き分け。せいでもあたゑ、ならん事すれば理を添えて後へ返える。」(M31・6・29) 格差社会といわれ、与えに関して不平等にみえる現実は確かにありますが、これについては「理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。これ聞き分け。」(M25・1・13)とのお言葉を心に治めたいものです。 |